挑戦記録

【30代社会不適合者♀の挑戦】在宅で年収500万円を目指すまでの道のり

ちゅい
ちゅい
はじめまして!
ちゅい と申します。

本日は私のWebサイトにお越しいただき、ありがとうございます。

私は、地方事務の薄給に絶望した、30代派遣社員♀です。

私はとある理由で、外出と集団行動が苦手な社会不適合者になりました。

そんな私が、在宅で働く方法を学び、年収500万円を目指すようになるまで
きっかけや経緯をお話しします。

最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

基本情報

名前:ちゅい
性別:女
生年月日:1991年7月16日
出身・居住地:仙台
職業:派遣社員(事務)
MBTI:INFJ(提唱者)気遣い屋さんの理想主義者
家族:夫・猫
好きな食べ物:寿司・オムライス
趣味:漫画・アニメ・ゲーム・YouTube・推し活

幼少期~中学生:順風満帆な生活からの不登校の始まり

地方公務員の優しい両親と、甘やかしてくれる祖母と、仲の良い4つ上の姉と、私。
家族に愛され、友人にも困らず、理解も割と早い方。
たいした努力もせずに、ある程度の成果が出て、人に褒められるような子供でした。

当時は「このまま何の不自由もなく順調に成長するんだ」と思っていました。

ちゅい
ちゅい
良く言えば「のびのびと育った」
悪く言えば「調子に乗った」子どもでした。

それが崩れたのは、中学1年の冬

当時好きになったアイドルにドはまり。
親のPCで情報収集したり、録画したテレビを見たりして、
夜更かしを続けた結果、昼夜逆転生活になりました。

寝るのが朝方→起きれない→学校を休む(遅れて行く日もある)
→体内時計が崩れているのでまた夜更かししてまた朝に寝る の繰り返し。

歩いて5分もかからない、家から見える距離にある中学校に
朝からフルでいけない日がほとんどでした

ちゅい
ちゅい
今思えば「人がやらないことをやっている自分かっこいい」という厨二病や、「共働きの両親に気にかけて欲しい」と言う寂しさもあったのかもしれません。

家族にも心配をかけているし、
「このままは良くないよなぁ」と思いつつも、

当時は学校に行かなくても、教科書を読めばある程度理解できたので、
「途中から行きづらいし、勉強は教科書見ればいいか」と
あまり危機感は感じていませんでした

まさかこの不登校がこんなに将来の自分を苦しめるとは
夢にも思わなかったのです。

高校生~22歳:トラウマで不登校に拍車がかかる

「高校からはちゃんと登校しよう!」と一念発起し、
高校入学してすぐは、ちゃんと朝から登校していましたが、
それも長くは続かず、夏休みには元の生活に

さらに不登校に拍車がかかったのは高校1年の冬

所属していた合唱部の発表会で、出番の直前に尿意を感じ、
それを我慢したままステージに立った結果、

その時は粗相せずに済んだものの、
「次似たような状況になったら漏らすかもしれない」という不安がトラウマになり、
心因性の頻尿を発症

トイレに行けない状況(通学などの移動・授業・発表の場など)全てに
恐怖を感じるようになったのです

ちゅい
ちゅい
「遅刻してでも行こう」と言う思いは
「通学中・授業中にトイレ行きたくなったらどうする?」という不安に塗りつぶされました。

高校卒業後に通院もしましたが、
20年近く経った今でも完治はしていません

幸い私の通っていた高校は、出席日数が足りていなくても課題提出で卒業出来たため、
なんとか高校は卒業できました

その後受験から逃げるように進んだ芸能系の専門学校でも、
最初は一生懸命通っていましたが
高校一年の時と同様、夏休みにリズムが崩れ、

親と「1年で結果が出なかったら辞める」という期限付きの約束をしていたことと、
2011年の東日本大震災もあり、1年で中退

大学に入り直そうと予備校にも通いましたが、結局受験する前に挫折。
パートで働く道を選んでも一年もたず、別の仕事を始めては辞めるを繰り返しました。

この頃の自分は、いくらトラウマがあるとはいえ、本当に根性がなく、
それっぽい理由を見つけて自分を正当化するような人間でした

こうして外出と集団行動に苦手意識を持つようになり、
社会不適合者への道を進んでいきました。

23歳~25歳:職業訓練と社会復帰

職が安定せず、ニート生活をしていた頃、
当時付き合っていた人(現:夫)が補助金を貰いながら職業訓練に通うことになり、
職業訓練という制度があることを知りました

「このまま堕落するのも嫌だし、
お金を貰いながら勉強が出来るなら自分もやりたい」と思い、
職業訓練でMOS資格を取ることを決意

職業訓練中は、朝は毎日起きるのも辛く、
休憩時間は毎回トイレに行ったりしていましたが、

訓練自体は、持ち前の理解力を活かし、
自分の分が終わったら、周りの困っている受講生を手伝ったりして、
充実した時間を過ごしていました

ちゅい
ちゅい
「人に頼られること」にやりがいを感じ始めたのはこの頃です。

MOS資格もWord・Excel・PowerPoint・Accessの4種類を無事取得

私が今まで事務職で頑張ってこれたのは
職業訓練で培ったPCスキルと規則正しい生活リズムのおかげです。

職業訓練が終わるのと同時に契約社員で就職も決まり、
毎朝しんどい思いをしつつも、
やっと人間らしい生活を送れるようになりました。

26歳~30歳:派遣ぬるま湯生活とリモートワーク

契約社員の契約期間終了後は、派遣社員になり、
大手食品メーカーを経験した後、
現在勤務している大手製薬メーカーに派遣先が変わりました

今の会社はITツールの導入は比較的進んでいたものの、
個人のリテラシーはそこまで高くなかったため、
MOS程度の知識でも褒められるような環境でした。

さらにありがたいことに、
製薬メーカーは基本給が高いこともあり、
給料も派遣事務の地域平均より高い金額を頂いていたため、

「生活に余裕があるわけではないけど、普通の生活くらいは出来てるし、
頼ってもらえるの嬉しいし、事務ならトイレのタイミングも割と自由
しばらくはこのままでもいいかな〜」と日々過ごしていました。

ちゅい
ちゅい
まるで絵にかいたような「ぬるま湯生活」で、
仕事は真面目にするけど向上心はない。という状態でした。

そんな最中に新型コロナウイルスが大流行

既にオンライン会議やクラウドツールは導入されていたため、
比較的スムーズに在宅ワークに移行しました

その時私は気づいてしまったのです。

データ集計・受電・資材発注など、
私の担当業務のほとんどが在宅で出来るということに。

ちゅい
ちゅい
今までは会社に行くのが当たり前だったので、
考えたことも無かった「在宅ワーク」という新たな選択肢に衝撃を受けました。

しかし在宅ワーク期間もそこまで長続きせず終了

家でできるのに、毎日どうしてしんどい思いして出社しなければならないのか
というモヤモヤだけ残りました。

この時、在宅ワークは外出や集団行動が苦手な自分にとって
とてもストレスの少ない働き方だということに気づいたのです。

30歳〜32歳:晴天と霹靂と心身の限界

突然の別れ

その後はモヤモヤを抱えながらも、
職場では必要とされていたし、直雇用の兆しが見えかけたこともあり、
ずるずると派遣社員のまま継続。

その日も朝普通に出社し、会議資料の準備をしていました。

お昼頃、母から電話があり、
「また実家の猫が逃げたのかな」くらいに思って電話に出たところ、

母
今朝、父さんが起きてこないから部屋に行ったら
心肺停止していた。
病院に運んでもらうので来てほしい。

 

一瞬で頭が真っ白になりました

 

酒もタバコもする人でしたが、
特に長年患っていた大きい病気がある訳でもなく、

なんだかんだ長生きするんだと思っていた父との別れが
こんなに突然訪れるなんて思わず、
まさに青天の霹靂

今までたくさん迷惑かけても、たまに家に帰れば
「困ったことないか」「生活費足りてるか」と気にかけてくれた父がもういない。

まだ全然親孝行だって出来ていないのに。

ひたすら自分を責めました。

ちゅい
ちゅい
「なんでもっと早く 親孝行しなかったんだ。」
「実家に帰ったときに もっと話せばよかった。」
「自分に稼ぎがあったら もっと何かできたんじゃないか?」
考え始めたらキリがありませんでした。

考えて、自分を責めて、泣いて、を繰り返した後、
父の葬儀で聞いた、ご住職の言葉を思い出しました

ご住職
ご住職
早くに亡くなった人は、残された人に寿命を分けてあげているんだよ。

寿命なんて分けてくれなくても
元気に生きていてくれればよかったのに。

でも、仮に父が寿命を分けてくれたのだとしたら、
せめて、これからは父が安心できるように精一杯生きないと

私が辛い思いしてたら父も悲しむだろうし、
このままの生き方じゃダメだ

ちゅい
ちゅい
父の死が、自分の今と将来を考え直すきっかけになりました。

ワンオペ事務時代

自分のこともちゃんと考えようと思った矢先に、
部署を2人で回していた相方の異動が決定

その分の補充が未定となり、
欠員のまま1人で回さないといけないことに

派遣された当初は、私含めて3人いた部署が
2年前に1人減り、さらに今回の欠員。

70人前後を支える内勤部署で、
3人が2人になるのと、2人が1人になるのでは訳が違います。

さらに、過去ほぼ同じ業務をしていた正社員と比べて私の給料は半分以下
派遣社員一人分のコストが浮いているはずなのに、
私の時給は40円しか上がらず

派遣会社に業務負担と時給について相談しても、
「既に平均より高いので、これ以上の給与UPは厳しい」との回答。

精神的に限界でした

ちゅい
ちゅい
今飼っている愛猫や家族がいなかったら、
最悪の選択をしていたかもしれません。

「派遣さん増やす?」と上長に言われても、教育する時間も精神的な余裕もない
残業もさせてもらえないため、業務は積もるばかり
どんなに辛くても、仕事を投げ出して辞める勇気もない

そうして1人で抱え込んだ結果、突然の上腹部の激痛
夜間救急に行って検査したところ、
ストレス性の胃炎と判明。

それに加え、学生時代の不登校で基礎体力がほぼ無いことがたたり、
元々人より少ない体力が、30代になってから年々さらに低下
体力がない分、気力も続かず、心は折れる寸前でした

世間的に高めの給料をもらっている正社員の中に
1人だけ給料の低い派遣社員の私。
どんなに頑張っても、時給に反映されない環境。

今までは「派遣社員だし、しょうがないか」と堰き止めていたものが
突然の父の死と激務の影響で決壊しました。

33歳〜:人生の転換期

“Canva” と オンラインスクール “リモラボ” との出会い

心身の限界を迎えて、まず考えたのは「転職」という選択肢でした。

しかし、いざ転職先を探してみても、仙台市内で求人を探すと、
自分の持つスキルでは時給が今より低いものばかり

たまに見かける「時給1,800円!在宅ワーク!」のような広告は、
いざ開けてみると全て東京などの都市部の求人

改めて給与格差を目の当たりにして、
地方事務の薄給に絶望しました

ちゅい
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独り身 かつ 両親健在であれば、
「都市部へ引っ越して心機一転稼ぐ」ということも
できたかもしれませんが、

「夫の仕事もあるし、母と離れるのは心配」という理由から、
移住は選択肢に入りませんでした。

それならせめて、基本は在宅で働けるところに転職したい

在宅なら今より体力的にも金銭的にも負担が少なくなりそうだし、
通勤でトイレを気にすることもない。
何より、毎日お留守番させている愛猫と少しでも一緒にいられる

そんなことを考えていた頃、
X(Twitter)で某Webデザイン系のスクールの広告の
「気遣い屋さんなあなたに」という文言に惹かれ、無料相談を受けたところ、

“Canva”というソフトに出会いました。

ちゅい
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「0→1は苦手だけど、テンプレート使ったらいけそう」
「ゆるキャラ的なもの描いて何かできないかな?」
仕事にワクワクしたのは久しぶりでした。

ただ、この時のスクールは費用も高く、担当者の圧も強かったため、入会には至らず
ひとまず独学でCanvaを使いながら、Instagramを開設して、投稿を始めました。

しかし、独学でInstagramを始めたはいいけど、
何を発信したら良いのかも、どうやったら伸びるのかもわからないまま迷走

そんな時、Canvaの勉強のためにフォローしていた
「こもりんのCanvaノート」というアカウントで
“リモラボ” というオンラインスクールの無料説明会の募集を発見

SNS運用に関する説明会だったこともあり、
インスタ運用の糸口を探すために参加しました

ちゅい
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説明会の印象も良く、費用面も何とか出せる額だったため、
夫と相談し、”リモラボ”への入会を決めました。

今思えば、これが転機だったのだと思います。

入会してしばらくはやる気だけはあったため、
元を取るため & 本業があってもなるべく後れを取らないように
ひたすらにインプットとアウトプットを繰り返し行い

Instagramをビジネス用に作り替えてからは、
ほぼ初めて”ちゃんと”作る投稿に慣れるまで
睡眠時間も休日も削りながらひたすらに手を動かしました

ちゅい
ちゅい
この時の私は「新しい知識が増えること」や
「投稿にリアクションを貰えること」に喜びを感じ、
多少の疲労もアドレナリンで乗り切れました。

モチベの終了 と 新しい挑戦

一方この頃、本業の派遣先では、
さすがに「教育する時間がない」なんて言っていられないほど雑務が溜まっていたため、
上長に派遣の増員依頼をしていました。

別の支社では正社員1人・派遣社員1人の体制だったため、
このまま派遣社員が入れば、ゆくゆくはスライドで正社員になれるかも?
と考えていたのも束の間、状況は一変。

欠員補充のために正社員が入ることが確定し、
「これは正社員になれない」と悟り、ついに心がポッキリと折れました

さらには派遣先の上長にも
「派遣会社の営業さん、会うたびに給料交渉ばっかりなんだよね。」と言われる始末。

ちゅい
ちゅい
愛想笑いでその場はしのぎましたが、
「私の7年って何だったんだろう…」
という虚無感が押し寄せました。

かと言って、夫も派遣社員で世帯収入も高くなく、
今の収入がなくなると生活が苦しくなるため、
すぐに辞めることもできません

辞めるにしても、当時はまだ副業も始められてなかったため、
既にあるスキルをベースに、クラウドワークスで出来る仕事を探しましたが、
オンライン秘書の仕事は日中の稼働時間が必須なものばかり

リモラボで学びながら運営していたInstagramも、
「自分の投稿作りで手いっぱいだから、仕事として受けるのはまだ無理そう」と
逃げ腰で応募せず

「簡単・稼働時間問わず」で始めたデータ入力(カテゴリ分け)の仕事も、
ただでさえ低単価なのに、カテゴリ分けするための情報を調べるのに時間がかかり、
月50時間稼働しても5,000円行くかどうか

最初はそんなものだと割り切って、業務に取り組んでいても、
睡眠時間を削られて頭も回らず余計に時間がかかり、
疲弊コースまっしぐら
でした。

ちゅい
ちゅい
日中は本業でメンタルを削られ、
夜は副業で体力を削られる。
睡眠不足で本業・副業ともに作業効率が下がり悪循環。

リモラボで学んだマインドセットでなんとか耐えましたが、
ギリギリを生きていました。

「何かこの疲弊コースを脱出する方法はないか…」
「疲弊コースから脱出するためには、今のスキルだけでは足りないのでは?
と考えていたところ、

リモラボで「Webマーケターコース」の募集が始まりました

最初は費用面で踏み切れずにいましたが、講師の方々のお話を聞くにつれ思ったのです。

ネックなのは費用面だけ。
これだけ自分が「受講したい=購入したい」と思うということは、講師陣に「購入したいと思わせる力=マーケティング力」があるということ。

それを身に付けられれば、もっと人の気持ちを動かせる=稼げるようになって、今の疲弊コースから脱出できるのでは?

だったら、実際自分をそうさせた講師陣から学びたい

こうしてWebマーケターコースの受講を決めました

地方事務の薄給・評価されない仕事・疲弊する作業に絶望した私が
藁にもすがるような思いで掴んだのは「Webマーケターコース」。
「在宅ワークで効率よく単価を上げるにはこれしかない!」と思いました。

最後に

私の目標は「1年以内に副業で月収15万円を安定させて派遣を辞め
2年以内に在宅ワークのみで年収500万円を達成すること」です。

なぜ年収500万円なのか?というと、
今の年収が300万円弱なので、年収500万円もあれば

  • 在宅で心身に配慮しながら、正社員並みの給料がもらえる
  • 今より生活に余裕が出来て、親孝行もできる
  • さらには投資などにお金を回せれば、今後不労所得もできるかも?

という理由から、目標を年収500万円に設定しました。

 

しかし、私はまだ「自分に合う”在宅ワーク”が何なのか」正直わかっていません
このブログを読んでくださっている方も、似たような状況なのではないかと思います。

私はこれから年収500万円を達成するために、
SNS運用・動画編集・オンライン秘書などのいろいろな在宅ワークに挑戦します。

今学んでいるWebマーケティングがどのようなもので、何に活かせるのかは、
後日また別の記事でご紹介します。

 

今はまだ「しがない30代地方事務員(かつ社会不適合者というマイナス付き)」ですが、
そんな私でも、本気で取り組んだら「在宅で年収500万円」を達成できるのか、
その答えを一緒にこのWebサイトで確かめていただけたらと思います

そして私のように「社会不適合者だから」「地方だから」「事務しかできないから」と
人生を諦めかけている方々が、「自分でもできるかも」と思えるような
きっかけになれたら嬉しいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。